第20回企画- 稲垣足穂×林海象 「映画★彌勒世界」展

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Galerie LIBRAIRIE6/シス書店では第20回目の企画として、
稲垣足穂×林海象 「映画★彌勒世界」展を7月27日(土曜日)~ 8月11日(日曜日)まで開催致しました。

今企画は、稲垣足穂の原稿や遺品、ポスターを制作した大月雄二郎による限定ポスターと油彩、永瀬正敏による映画撮影時に撮られた写真作品の展示です。

■8月4日(日)15時より18時まで監督/林海象と主演/永瀬正敏が在廊。

稲垣足穂 – Taruho Inagaki –
1900年生まれ。
子供の頃から、映画や飛行機などに魅了され、在学時に同人誌『飛行画報』を創刊。
1916年、飛行家を目指し、発足したばかりの羽田の「日本飛行機学校」の第一期生に応募するが、近視のため不合格となり断念。
1919年、関西学院卒業後、1921年、佐藤春夫に『一千一秒物語』の原型を送付、佐藤の知遇を得る。
また同年の第1回未来派美術展に『月の散文詩』を出品し入選している。
1922年には、『チョコレット』『星を造る人』を『婦人公論』に発表。1923年に、『一千一秒物語』を金星堂より刊行。
この前後、雑誌『文藝春秋』『新潮』『新青年』を中心に作品を発表、単行本も『星を売る店』(1926年)、『天体嗜好症』(1928年)と数冊ほど刊行され、新感覚派の一角とみなされる。『WC』は横光利一の絶賛を得る。
『文芸時代』同人のころには、自身と同じく同性愛研究家でもあった江戸川乱歩と出会う。
ところが、佐藤が菊池寛の作品を褒めたことにより「文藝春秋のラッパ吹き」と佐藤を罵倒、寄宿していた佐藤の家を飛び出し、文壇から遠ざかる。1930年、家郷の明石へ。1934年には父の死を受け、衣装店を経営するが、家賃の未払などもあって、各所を転々とする。
アルコール、ニコチン中毒により執筆も滞ったが、同時期に伊藤整、石川淳と交友を結ぶ。文壇から離れた後は、主に同人誌で作品を発表しつづけたが、極貧の生活を送り、出版社からも距離を取られることになる。
1950年、篠原志代と結婚、京都に移る。それまでの著作の改稿を始め、『作家』に160編など精力的に作品を発表。佐藤没後の1968年、三島由紀夫の後押しで『少年愛の美学』で第1回日本文学大賞を受賞。1969年から『稲垣足穂大全』(全6巻)が刊行され、一種の「タルホ」ブームが起きる。1977年10月25日、結腸癌で入院していた病院で急性肺炎を併発し、死去。享年76。

林海象 – Kaizo Hayashi –
1957年生まれ。日本の映画監督・映画プロデューサー・脚本家。
立命館中学校・高等学校を経て1977年立命館大学経済学部を中退。
制作会社「映像探偵社」を起こし、1986年にモノクロ・字幕映画として撮った『夢みるように眠りたい』で映画監督デビュー。林はそれまで映画制作現場での経験が全くなかったものの、このデビュー作は高評価を得た。その後、多くの作品の監督、脚本を手掛ける。1999年、文化庁新進芸術家在外研修員としてアメリカに留学。監督作の多くに、探偵が登場するのも特徴である。
代表作『アジアンビート』シリーズでは永瀬正敏を主演に起用。後の『私立探偵 濱マイク』シリーズの原型になった。 「私の父と母は韓国からこの日本に渡ってきた。その時の父と母の気持ちはどういうものだったのだろう? と私は思う。そういう気持を一度は物語で書いてみたいというのが、この脚本を書くにあたっての出発点だった」と、2010年放送のNHKドラマ『大阪ラブ&ソウル?この国で生きること』について出自を初めて明かした。2007年度より京都造形芸術大学芸術学部映画学科の学科長に就任。「映画学校にもいかず、
映画現場を経験せずに映画監督になった日本で初めての映画監督」と自称し、学生の指導に当たっている。
京都市左京区にある探偵の世界をテーマとしたバー「BAR探偵」のオーナーでもある。


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